第三回 フィールドワーク、追加実施!

古代官道ロマン

2009年01月19日 09:45

1月17日(土)、第三回 フィールドワークの追加開催が行われました。

古代官道 西門ルートの水城西門跡から大宰府政庁までを巡るルートで、昨年11月29日に開催したコースなんですが、参加希望者が多く、今回臨時の特別開催です。

(画像をクリックすると、ルートマップが拡大表示されます。)

太宰府市教育委員会の山村さん、筑紫野市教育委員会の小鹿野さんに解説をして頂きながらのボリューム満点のルートで、当日の様子を全部は紹介しきれませんが、写真を交えて、簡単に紹介します!


まずは、出発地点の水城西門跡。
664年、博多湾から攻め入ることが予想された唐・新羅軍の備えて造られた防衛施設で、特別史跡に指定されています。
福岡平野は、扇方に広がっていて、ここ水城はちょうどその狭い部分に位置し、また大野城、基山の両方の山城に挟まれていて、博多から大宰府に向かう場合には、必ず通る場所だったそうです。


水城を太宰府側から見ると、20~30mほどの平坦な部分が整備されていました。守備側が動きやすいように造られたことが推測されます。




次に行ったのが、
島本遺跡。

官道の路面幅が約10m、道の両側には幅3mの側溝の跡が見つかったそうです。
現在マンションが建っていますが、建築時にオーナーの方にも協力頂いて、駐車場に、側溝の跡がわかるようにアスファルトが色分けされていました。わかるかなぁ・・・。




続いて、前田遺跡。

路面の幅10m、両側溝の幅1mが古代官道の跡が見つかっています。
現在は、公園が整備されていますが、公園の地下には一部が保存されているそうです。
公園の入り口には、側溝部分を茶色のレンガで示されていました。

右の写真、官道があったとされる路面上に、参加者の皆さんに並んで頂きました。

23人が直線上に並べる広さ。
古代官道が如何に幅の広い道だったかが伺えます。




ここは、杉塚廃寺。7世紀末から8世紀初頭の頃に建立されたと思われる寺院の礎石がみつかったそうです。

杉塚廃寺近くで、古代官道 西門ルートと、太宰府条坊が南端が交差し、そこから大宰府条坊跡へ。大宰府は、平城京や平安京などの都と同じように、条坊制が敷かれていたそうです。
中国の唐の制を模倣したもので、東西、南北に走る街路で碁盤の目のように区画して街区を構成したのが条坊制で、古代の都市計画です。
南北22条(約2.4km)、東西24坊(約2.6km)のとても大きな都市区画で、その中心を走り、大宰府政庁へと向かう中央大路が朱雀大路です。
右のイメージが朱雀大路ですが、幅が約35m前後もあったと推定されています。


このマンション、条坊の道路があった部分で、このマンションの幅がそのまま道路の幅だったそうです。


ここは、朱雀大路の西側溝が発見された場所。
その後、東側溝が発見され、二つの溝の間隔から、道路の幅が約35m前後と推測されたそうです。

この道が、ほぼ朱雀大路の中心に近い場所らしい。まっすぐ行くと、大宰府政庁に向かいます。


榎社です。
菅原道真が太宰府に左遷されてから、亡くなるまでの2年間、ここで過ごしたそうです。

ゴール地点の大宰府政庁跡。

何故、まっすぐで幅広い直線道路が造られたのか、何故、条坊制が敷かれた立派な都市が形成されたのか、何故大宰府政庁のような役所が必要だったのか、それを探るフィールドワークでしたが、国家として、海外との外交の上で、優位に交渉を進めるために、国としての品格を示す目的があったのではないかという話で、フィールドワークを終えました。

今までは、タイムマシンがあれば、未来に行ってみたいと思ってましたが、歴史の変遷や、当時の暮らし、変化の過程など、過去の日本も見てみたいと感じるフィールドワークでした。

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